「ラ・コンポステーラ」とは
9世紀の初めに聖ヤコブの墓が発見されて、その後、10世紀にかけてイベリア半島北西部、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が発生し盛んになるにつれて、その巡礼を社会的、宗教的に認識させることのできるシステムを構築する必要が生じてきました。そのため、最初に考案されたのは、サンティアゴに到着した巡礼者たちに、ガリシア地方の大西洋岸で採れるホタテ貝の貝殻を「巡礼した証明」として授与することでした。
しかし、この「ホタテ貝の貝殻の証明」を偽造するのはとても簡単なことでした。そのため、サンティアゴの高位聖職者たちだけでなくローマ教皇までもが、巡礼者のためのシンボルの偽造を防ぐために、「ホタテ貝のシンボルを偽造した者は、教会から破門にする」という掟を作ることになりました。さらにその後、13世紀になると、サンティアゴの大聖堂が発行する「巡礼を証明する手紙」というものが作られるようになり、これが、今日の巡礼証明書である「コンポステーラ」の起源となりました。しかし、この「ホタテ貝の貝殻の証明」を偽造するのはとても簡単なことでした。そのため、サンティアゴの高位聖職者たちだけでなくローマ教皇までもが、巡礼者のためのシンボルの偽造を防ぐために、「ホタテ貝のシンボルを偽造した者は、教会から破門にする」という掟を作ることになりました。さらにその後、13世紀になると、サンティアゴの大聖堂が発行する「巡礼を証明する手紙」というものが作られるようになり、これが、今日の巡礼証明書である「コンポステーラ」の起源となりました。16世紀になると、敬虔なカトリック教徒のフェルナンド王とイサベル女王が、巡礼者を保護するための基金を設立し、その一環としてサンティアゴに王立の巡礼者養護院を作りました。この王立の巡礼者養護院では、巡礼証明書「コンポステーラ」を見せると、無償で3日間宿泊することができました。その後、近代になると、巡礼者のための病院でもあったこの建物は内部が改装され、ガリシア地方で最も大きな病院となり、またサンティアゴ大学の医学部の一部としても使用されていました。そして、前世紀の1954年に、スペイン国営のパラドールとして使用されることになりました。
モーターが発明された後、前世期の中頃からはスペインでも車が普及し始めたことと、この国の観光業の急速な発達により、「巡礼」という旅の形や意義が脅かされるようになってきました。それまでは、神に罪を許してもらうための非常な努力と自己犠牲による旅というのが、巡礼の真の形でしたが、それは徐々に、楽しいバカンスの旅に変化しつつありました。さらに、宗教団体以外の組織が、「コンポステーラ」を真似た巡礼証明書なども発行するようになってきました(その例のひとつとして、宗教団体ではないイスラエル政府の観光省が、イスラエルへ巡礼したという証明書を発行してるという)。サンティアゴの大聖堂側は、このような社会の変化に対応せざるを得なくなり、聖堂参事会は、「正式の巡礼証明書であるコンポステーラ」を発行し続けましたが、偽物の証明書は相変わらず増え続けたのです。そのため、大聖堂としては、以下のような条件を巡礼者に義務付けることを決めました。「コンポステーラ」が授与されるのは、「まず宗教的な理由によるものとし、さらに、少なくとも最後の100キロ以上を徒歩あるいは馬で行った者、自転車の場合は200キロ以上巡礼した者」と定義され、上記の方法以外で巡礼を行ったものには授与されないこととしました。ただし、身体障害者の場合は、モーターの付いていない車椅子で巡礼した者だけに授与されるものと定められました。